江戸末期。大名たちが行きかう江戸時代のビジネスセンター大名小路

IIIビジネスセンター大名小路の創成

ビジネスセンターと共存する行政機構

ビジネスセンターと共存する行政機構
Map上の18の数字は、下に表示されている各番号の場所を示しています。
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1有楽町イトシア

南町奉行所

江戸町奉行は領内の都市部(町方)の行政・司法・警察を担っていた。定員は2名で南北両奉行に分かれていたが、エリアを分けて管轄していたわけではなく、奉行所所在地の位置関係によってそう呼ばれていただけである。実際には、月番制によって隔月で業務を行っていた。南町奉行所は1707年に常盤橋門内から移転し、現在の有楽町イトシア付近に置かれていたことがわかっている。名奉行として名高い大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ・1677年~1752年)は、1717年から1736年までの約20年間ここで職務を執っていた。

南町奉行所
2丸の内トラストタワーN館

北町奉行所

1806年から幕末まで、東京駅八重洲北口のグラントウキョウノースタワー付近に北町奉行所があり、東京駅八重洲にある丸の内トラストタワーN館裏手には石碑が建っている。鼠小僧次郎吉の裁きもここで行われ、遠山の金さんで有名な名奉行・遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと・1793年~1855年)も1840年から1843年までここで職務を執っていた。なお、遠山左衛門尉景元は1845年から52年に再任され、南町奉行を務めている。

北町奉行所
3日本工業倶楽部会館

伝奏屋敷(てんそうやしき)

伝奏とは朝廷に置かれ、奏聞(天皇・上皇に報告・説明等を行う)や伝宣(天皇や上皇の勅旨を伝達する)を専門的に行う役職で、接待のしきたりは非常に手が込んでおり莫大な費用を要したという。公家衆御馳走屋敷ともいわれ、伝奏御馳走役を命じられた大名はこの長屋に引き移り、高家の指図をうけながら一切の世話をした。「忠臣蔵」の浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみなが のり・1667年~1701年)が命じられたものこの役で、その礼法指南役が吉良義央(きら よしひさ・1641年~1703年)であった。

4永楽ビル

伝奏屋敷(てんそうやしき)

伝奏とは朝廷に置かれ、奏聞(天皇・上皇に報告・説明等を行う)や伝宣(天皇や上皇の勅旨を伝達する)を専門的に行う役職で、接待のしきたりは非常に手が込んでおり莫大な費用を要したという。公家衆御馳走屋敷ともいわれ、伝奏御馳走役を命じられた大名はこの長屋に引き移り、高家の指図をうけながら一切の世話をした。「忠臣蔵」の浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみなが のり・1667年~1701年)が命じられたものこの役で、その礼法指南役が吉良義央(きら よしひさ・1641年~1703年)であった。

5三菱UFJ信託銀行本店ビル

評定所(ひょうじょうしょ)

評定所は1666年に伝奏屋敷の隣に建てられた。江戸幕府の最高司法機関で、老中および寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行などが参集して将軍の直臣である大名、旗本と御家人への訴訟などを評議裁判した。江戸の殉教者ペトロ・カスイ岐部神父(ペトロ・カスイきべしんぷ・1587年~1639年)が徳川家光同席の上で尋問を受けたといわれるのもこの評定所と思われる。

6大手町ファーストスクエア

作事方定小屋/小普請方定小屋
(さくじかたじょうごや/こぶしんぶぎょじょうごや)

少し乱暴だが、「作事」は大工、「普請」は土木という意味。「作事」は江戸城の建築関係に携わる仕事。中井大和、甲良豊後、木原内匠などが携わり、彼らは「御用大工」とも呼ばれた。一方「普請」とは、堀や石垣の工事をさす言葉で、これも武士の仕事だった。江戸城築城時には加藤清正(かとう きよまさ・1562年~1611年)、黒田長政(くろだ ながまさ・1568年~1623年)、藤堂高虎(とうどう たかとら・1556年~1630年)らがこれにあたる。石垣普請は西国大名、堀の開さくは関東、奥羽の大名たちが主にあたったという。

7明治安田生命ビル

定火消御役屋敷諏訪主殿頭 安藤広重
(じょうびけしおやくやすわとのものかみ)

定火消というのは職名で、江戸最大の大火と呼ばれる「明暦の大火」の翌1658年に4千石以上の旗本4名を選び、それぞれに与力6名、同心30名を付属させて設置した幕府直轄の消防組織。若年寄の支配に属し、最初は4組でスタートしたが、後に10組となったため十人火消しとも呼ばれた。10組とは、赤坂溜池・赤坂門外・飯田町・市谷左内坂・小川町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・駿河台・八代洲(八重洲)河岸・四谷門外で、八代洲河岸定火消屋敷が現在の明治生命館のところに設置された。ちなみに、八代洲河岸(やえすがし)の名前は、徳川家康に重用されたオランダ人のヤン・ヨーステンの屋敷があったことにちなむ。そしてこの地は、安藤広重生誕の地でもある。安藤広重は八代洲河岸の定火消同心・安藤源右衛門(じょうびけしどうしん・あんどうげんえもん)の長男として生まれ、13歳のときに相次いで両親を失い、定火消同心の職を継ぐことになる。しかし幼い頃から絵が好きで、15歳の時に歌川豊広の門人となり、やがて家業の定火消同心を辞め浮世絵師を専門の職業とした。

8桜田門外の変

1860年、江戸城桜田門外で水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士たち18名が彦根藩の大老井伊直弼(いい なおすけ・1815年~1860年)を殺害した事件。この事件を契機に尊王攘夷運動が激化し、明治維新へと時代は動いていく。井伊直弼を襲い、その首を討ち取った水戸藩士や薩摩藩士は江戸城の堀に沿って北に逃げた。しかし、彦根藩士との戦闘で深手を負っていたので、和田倉門の前で水戸藩士・広岡子之次郎(ひろおか ねのじろう・1840年~1860年)が、和田倉門先の若年寄遠藤但馬守(えんどうたじまのかみ)の辻番所前で薩摩藩士・有村治左衛門(ありむら じざえもん・1839年~1860年)が絶命する。桜田門から日比谷門、そして馬場先門、和田倉門と、彼らは丸の内のあたりを血まみれで逃走したことになる。

取材協力:千代田区立日比谷図書館