近代日本のビジネスセンター創出
(明治維新~昭和10年代前半)

I新時代に向ける不燃都市創設志向

明治維新誕生直後に大丸有地区にできた官庁

明治維新誕生直後に大丸有地区にできた官庁
Map上の15の数字は、下に表示されている各番号の場所を示しています。
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1三井物産本社

内務省/大蔵省

現在の官庁街といえば霞ヶ関だが、当時、霞ヶ関にあったのは外務省だけで、その多くは皇居周辺に点在していた。これは明治政府が、旧大名屋敷を行政機関や裁判所に転用したためで、内務省と大蔵省はいまの大手町周辺、酒井家の屋敷が使われ、大蔵省は現・三井物産本社にあった。

2東京駅

司法省

廃藩置県後に、岡山藩池田家の中屋敷跡(現東京駅)に司法省がおかれ、その後この司法省が霞ヶ関へ移転した後、この地に中央停車場が設けられる。なお、現存する煉瓦づくり3階建ての法務省旧本館(旧司法省)は、霞ヶ関へ移転後に建てられたもの。当時の外務卿井上馨が幕末に調印した不平等条約改正のため、欧米列強に対して遜色ない首都の壮観を整えようとした「官庁集中計画」を偲ぶ遺産とされる。

3日比谷公園

陸軍日比谷練兵場

維新後、江戸時代には鍋島・毛利家など8家の大名屋敷だった現・日比谷公園は、一時、政府の推奨により桑畑や茶畑に転用された。しかし、1871年(明治4年)に陸軍日比谷操練場として使用され、1885年(明治18年)から陸軍日比谷練兵場と名称を変える。その後、政府は練兵場を青山へ移し、日比谷官庁街計画を立てたが、1889年(明治32年)の東京市区改正設計において「帝都にふさわしい公園」をつくることを決定。現在の日比谷公園の礎が着手されることになる。なお、陸軍省は永田町(現・憲政記念館付近)に、海軍省は築地(現・中央卸売市場)に設置された。

日比谷練兵場
4和田倉門付近

明治5年の大火

1872年(明治5年)2月、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会津藩邸中屋敷)から出火。西北の風に煽られて火は広がり、馬場先濠を越え、丸の内、銀座、築地一帯の約95ヘクタールを焼く大火となった。これにより、大名小路は事実上壊滅。そこで、この地域は当時の東京の表玄関ともいえる新橋に近いこともあり、政府は西洋流の不燃都市構築を目指すことになる。また、同年には丸の内地区に初めて町名がつけられ、北から道三町、永楽町一丁目、永楽町二丁目、八重洲町一丁目、二丁目、有楽町一丁目、有楽町二丁目とされた。この名が廃され丸の内一丁目、丸の内二丁目、丸の三丁目と変わったのは1929年(昭和4年)のこと。

5常磐橋

常磐橋完成

江戸城外郭の正門の一つ江戸城常盤橋門があったところ(現・常盤橋公園)に付設されていた常磐橋はもともと木造橋だった。しかし、1877年(明治10年)に長崎から召集された石工たちによって石造洋式橋(アーチ式)に架け替えられた。江戸から明治にかけて江戸城外郭にあった橋の多くは石橋に架け替えられたが、この常磐橋が東京で現存する最も古い石造洋式橋となっている。

取材協力:千代田区立日比谷図書館