東京銀行集会所
1916年(大正5年)9月に竣工。設計は松井貴太郎で、煉瓦壁に白色系の石を配する軽快なデザインに特徴があり、19世紀末のイギリスで流行した建築様式。渋沢栄一が創設した東京銀行協会のための集会施設として利用されたもので、ビジネス街としての広がりができてきたことを象徴している。1993年(平成5年)に外壁だけを残して高層ビルに改築されるが、ファサード保存と呼ばれるこの保存方法は、以降、全国各地に見られるようになる。
三菱第2号館
曽禰達蔵の設計により、1918年(大正7年)2月に完成した7階建ての鉄筋コンクリートによる効率性重視のアメリカ式オフィスビル。建物の名称に“ビルディング”とつけたのは、同建物が日本で最初とされる。1930年(昭和5年)には「東京海上ビルディング新館」も完成する。明治時代までは、赤煉瓦の建物が丸の内ビジネスセンターの象徴でもあり「一丁倫敦(ロンドン)」ともいわれたが、この海上ビルディングをはじめ、丸の内ビルヂング、日本郵船ビルなど、アメリカ式のオフィスが行幸通り沿いに建ち並び、「一丁紐育(ニューヨーク)」といわれるようになる。装飾性の高いヨーロッパ式の赤煉瓦づくりのビルから鉄筋コンクリートによるフロア重視のアメリカ式のオフィスビルへの転換は、そのままビジネスのスタイルが、ヨーロピアンスタイルから、より合理的なアメリカンスタイルへと変わっていったことを意味している。
日本工業倶楽部会館
1920年(大正9年)11月に竣工。東京銀行集会所の設計で知られる松井貴太郎や横河民輔などにより設計され、地上5階、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造。実業家の親睦を目的とした社交クラブとして建てられたもので、正面屋上には小倉右一郎作の2つの人像が配されている。男性はハンマー、女性は糸巻きを手にしており、当時の2大工業である石炭と紡績を示している。国賓を迎えることを考慮して、入口にはドリックオーダーの無垢の石柱が 4 本配されており、正面階段も広くとられている。第一次世界大戦による工業の発展、昭和初期の大恐慌、戦争、敗戦、復興、経済成長を通じて常に経済界の大きなドラマの舞台となり、財界のメモリアル的な存在といえる。2003年(平成15年)に建て替えられたが、会館の南側部分が保存・再現されている。
東京會舘
1922年(大正11年)11月竣工。鉄骨煉瓦造りでルネッサンス様式で、開館以来、日本を代表する社交場として長い歴史を持つ。1934年(昭和9年)にはフランス料理のレストラン「プルニエ」もオープン。1911年(明治44年)の帝国劇場、1916年(大正5年)の東京銀行集会所、1920年(大正9年)の日本工業倶楽部会館、そしてこの東京會舘と、丸の内に社交場が次々につくられていくことで、街としての深みがさらに増していくことになる。
丸ノ内ビルヂング
カーテンウォール工法など新しいアメリカ式建築法を駆使した丸ノ内ビルヂングが完成したのは1923年(大正12年)2月。地上8階、地下2階。延べ床面積6万2,000㎡で、それまで一位を占めていた海上ビルディングの約3倍の広さだった。丸ビルは下駄履きが禁止だったため、通勤者は人によっては地階の下足で草履に履き替えたという。また、地下1~2階に食堂やショッピングモールを備えており、こうしたインフラがサラリーマンの職住分離の不便さを補填し、より快適なワークスタイルを構築していったといえる。ちなみに、1920年代後半で丸の内のワーカーの数は約3万人といわれ、その約1割がタイピストや女事務員、ショップ・ガールなど女性だったという。丸ビル完成半年後の9月に関東大震災が起き、丸の内では警視庁が全焼したほか、建築中の内外ビルが倒壊するなど大きな被害を受けた。この災害を乗り越え、1929年(昭和4年)には250台の自動車を収容できる「丸の内ガラーヂビルヂング」も完成し、モータリゼーション社会の到来を予感させる。
郵船ビルディング
丸ビルの竣工から3ヵ月後の1923年(大正12年)5月に竣工。鉄骨鉄筋コンクリート構造で、外層はルネッサンス式テラコッタ張り。設計は曽禰中條建築事務所だが、施工は米国・フラー社と三菱合資会社との合弁会社であるフラー建築株式会社。
行幸通り
行幸通りの正式名称は「東京都道404号皇居前東京停車場線」。震災後、帝都復興事業の一環として皇居の和田倉門から東京駅に通じる幅員73mの広規格道路道路として計画され1926年(大正15年)7月に完成。当初は高速車線や緩速車線、歩道などがあったが、その後、中央車線は天皇の行幸や信任状奉呈式に向かう外国大使の馬車の専用道となる。
帝国劇場
関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣で後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、その一環として明治期に作られた常磐橋の隣には1926年(大正15年)12月竣工の常盤橋がつくられ、現在も幹線道路として使用されている。
八重洲ビルヂング
もともと1891年(明治24年)に建てられた三菱の建築を担当する部門であった「丸ノ内建築所」の事務所だったところに、1928年(昭和3年)3月に建てられたのが八重洲ビル。1962年に「丸ノ内八重洲ビルヂング」と改称された。外観は小松石の粗積石による基壇部を持つ3層の意匠が特徴的。2004年(平成16年)に、「丸の内再構築」の第2ステージ第1弾として、丸ノ内八重洲ビルヂング、古河ビル、三菱商事ビルの3棟を一挙に建て替えて、丸の内パークビルディングと三菱一号館を復原した三菱一号館美術館となる。
東京中央郵便局
吉田鐵郎により、1931年(昭和6年)に完成。一見何の変哲もない建物だが、日本古来の柱と梁による架構を採り入れ、それを外観にまで表現したとして評価されている。新時代の日本の建物の原型といえ、1933年(昭和8年)に来日したブルーノ・タウトはそのデザインの独自性に感嘆し「モダニズムの傑作」と称えている。
明治生命館
明治生命は1881年(明治14年)7月に日本で最初の近代的生命保険会社として創業し、1895年(明治28年)には曾禰達蔵の設計による三菱二号館に移転。昭和に入り新社屋の計画がもちあがり、当初は三菱第二号館の隣接地に建設する予定だったが、広い面積を使ったダイナミックな建物の必要性から三菱第二号館を解体して建設。3年7ヵ月の歳月をかけ1934年に竣工。古典主義様式の最高傑作で日本の様式建築の最高峰として高く評価され、1997年(平成9年)5月には重要文化財に指定されている。
第一生命館
1938年(昭和13年)11月に竣工。設計は渡辺仁と松本与作で、シンプルな外観と堅牢な構造をもち装飾を排した新古典主義的なデザインとして評価が高い。隣接する1933年(昭和8年)9月に竣工した農林中央金庫有楽町ビルと2つの建物を一体化して?再構築するという珍しい保存方法がとられ「DNタワー21」としていまに至る。建物前面が第一生命館の北側外壁、裏側に農林中央金庫有楽町ビルの外壁の柱頭と柱脚を復元している。