近代日本のビジネスセンター創出
(明治維新~昭和10年代前半)

IIオフィスビルと赤煉瓦(石)の文化

明治20年代から行われた大丸有地区の街づくり

明治20年代から行われた大丸有地区の街づくり
Map上の18の数字は、下に表示されている各番号の場所を示しています。
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1三菱一号館

三菱第1号館

明治5年の大火もあり、丸の内はすっかりさびれてしまった。その丸の内が大きく変貌を遂げるのは1890年(昭和23年)のこと。その2年前に東京市は都市計画のマスタープランを作成し、丸の内を市街化する計画を立てる。また一方で、陸軍省は麻布に煉瓦造りの近代的な兵営を建てるための原資を必要としていた。こうしたことが相まって、岩崎彌之助は政府から大手町、丸の内、有楽町など約35万㎡もの土地を買い取り、ここを災害にも強い堅牢な一大オフィス街にしようと計画する。 この計画に則り、1894年(明治27年)に日本で最初の近代的オフィスビルとして建てられたのが「三菱一号館」。丸の内最初のこの赤煉瓦ビルは、地上3階地下1階建てで、英国ヴィクトリア時代のクイーンスタイル。ここには、三菱合資会社が入居し、岩崎彌之助の部屋も設けられたという。その後、次々と馬場先通り沿いに軒高と意匠が整えられた煉瓦造の西洋建築が建ち並び、そこにガス灯が建ち、銀杏の街路樹が植えられ、その景観はまるで外国のようだったため、この界隈は「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれるようになる。

三菱第1号館 三菱第1号館
2明治生命館

三菱第2号館

三菱第一号館に次いで、翌1895年(明治28年)7月に完成したのが三菱第二号館だ。設計は一号館同様に英国人建築家ジョサイア・コンドルと曾禰達蔵で、主に保険会社の用に供するものとして建てられ、当初は東京海上火災保険会社、明治火災海上火災会社、明治生命保険会社がこのビルを本社とした。「商業」という視点で建物をみると、江戸時代は大店にしても番頭さんを筆頭に店に住み込み家族的なコミュニティを基本としていた。しかし、明治維新を迎えオフィスを「賃貸」するという新しい発想の在り方がこの丸の内から提案され、いままでの大店とは違う職住分離のコミュニティが創設され、働く人のワークスタイルは江戸時代と大きく変わっていった。つまり、建築様式の変遷がサラリーマンの働き方を大きく変えたことになる。しかし、当時はまだ、フロアを借りるというのが一般的ではなく、会社ごとに玄関を設ける縦割り長屋スタイルを踏襲していて、内部には畳の部屋も設けられていた。

三菱第2号館
3新東京ビル

三菱第3号館

三菱第3号館は、1893年(明治26年)6月に建設を着手して1896年(明治29年)4月に竣工した。曾禰達蔵設計で、日本初のエレベーターを設置している。竣工当初は日本郵船会社の本社ビルに供された。このビルは、1918年(大正7年))に三菱東7号館と改名される。また、1929年(昭和4年)には別館を建築し、後に「丸之内会館」として使用される。大名小路から姿を変えた丸の内は、木造とは一線を画した「石」の文化をつくることを目指したわけで、この地は近代建築群の集積地となっていく。これは、その後に建てられた東京駅舎や、昭和の建築として初めて重要文化財に指定された明治生命館にも綿々と受け継がれている。三菱合資会社が、石のなかでもとりわけ赤煉瓦にこだわったのは、一つひとつのレンガを積み重ねていくという行為や、レンガの色がすべて微妙に異なるのに総和としては一つの色をつくり上げていることが、これからの日本のビジネスの在り方につながるという思いがあったためといわれている。

三菱第3号館
4東京商工会議所

東京商法会議所

明治維新の国是をふまえ、商工業発展のための総合的組織として1878年(明治11年)3月に設立されたのが東京商法会議所。渋沢栄一を初代会頭とし、1891年には東京商業会議所と名を改める。そして、1899年(明治32年)に馬場先門のお濠端、三菱第二号館と通りを隔てた隣に、同会議所の建物ができる。煉瓦造り、地上2階、地下1階の塔のあるルネッサンス様式のクラシックな建物で、設計は妻木頼黄。

東京商法会議所
5丸の内パークビル

三菱第4号館

設計は曾禰達蔵で、煉瓦造、屋根スレート葺。三菱第4号館はその後、古河ビルに建て替えられるが、それも丸の内二丁目の再開発に併せて、「丸ノ内八重洲ビルヂング」「古河ビルヂング」「三菱商事ビルヂング」を再開発。超高層ビルと三菱第一号館を復原した三菱一号館美術館へと替わる。

三菱第4号館
6新東京ビル

三菱第12号館(三菱仲8号館)

第11号館に続く第12号館として1907年(明治40年)に着工して1910年(明治43年)8月に竣工。設計は三保岡勝也、木野精吾、内田祥三で、建築顧問は曽禰達蔵。ここも、玄関等を共用としない棟割長屋の間取りであった。1918年に仲8号館と改称。

第12号館の工事現場
7富士ビル

三菱第13号館(三菱仲7号館)

1907年(明治40年)に着工し1911年(明治44年)に竣工。1918年(大正7年)に仲7号館と改称。設計は保岡勝也、内田祥三、福田重義による。三菱第1号館以来、次々に建設された丸の内地区の近代ビルだが、英国様式の煉瓦造の洋風建築はこの三菱第13号館建設後ほとんどなくなり、以降は鉄筋コンクリート造のビルとなっていく。

三菱第13号館
8帝国劇場・出光美術館

帝国劇場

1911年(明治44年)3月、渋沢栄一ら財界人の出資、横河民輔の設計で建設。ルネサンス風フランス式5階建て建築で、客席はすべて椅子席。オーケストラボックスをもつ日本最初の完全な西洋式演劇劇場として知られる。切符制度による1ヵ月単位の興行など近代的な経営法をとり、「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチフレーズは当時の流行語になった。丸の内は1890年(昭和23年)以降、日本の近代ビジネスセンターとして発展していったが、ビジネスという機能だけでなく、1922年(大正11年)に建てられる東京會舘と併せて文化度を高める建物も建つようになっていくことで、街の厚みが増していくことになる。

帝国劇場

取材協力:千代田区立日比谷図書館