占領、高度成長時代に向けた大丸有地区の基盤整備(戦後~昭和30年代)

I占領接収MAP

占領下で接収された大丸有地区のビル

占領下で接収された大丸有地区のビル
Map上の113の数字は、下に表示されている各番号の場所を示しています。
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1丸の内パークビル

仲10号館8号、仲12号館5号

仲10号館8号は旧アメリカン倶楽部で、1945年9月に接収され1949年4月まで、GHQ関東地区民政部、C級裁判所関係事務所、閉鎖機関関係事務所として使われた。一方、仲12号館5号は連合軍法務部として1945年12月から1952年9月まで接収された。

仲10号館8号 仲10号館8号と9号 仲12号館8号
2新東京ビル

仲8号館(12号館)、東7号館別館、三菱21号館、東7号館、仲6号館7号、5号

仲8号館は1945年12月に接収されてエコノミック・リサーチ・ビルとして使用され、1949年7月に外国商社への貸事務所とすることを条件に接収が解除された。以降、1952年まで通産省所管外国商社事務所として使用された。東7号館別館(丸之内会館)は米報道機関(プレスクラブ)宿舎に、仲6号館7号、5号はそれぞれ有楽ホテルと仲ホテル従業員宿舎になった。また東7号館は、別館接収から3ヵ月後の1946年4月に接収され、診療所・医学総合研究所として使われた。一方、三菱21号館はソ連軍宿舎となり、ソ連軍引き上げ後も1956年まで戦史編集部、沖縄基地建設設計部関係などに使用されていた。

東7号館倉庫 三菱21号館 改修工事後の仲6号館
3新国際ビル

仲4号館6号、仲4号館7号

1945年12月に接収され、有楽ホテル従業員宿舎として使用された。解除されたのは、仲4号館6号が1953年1月、7号は1952年3月。

仲4号館の裏通り
4三菱ビル

三菱本館

三菱21号館に続くものとして第22号館あるいは三菱仮本社などとも呼ばれた三菱本館は、1946年1月に接収され女子軍人宿舎ならびに郵便部隊用に使用された。

接収された三菱本館
5丸の内二丁目ビル

三菱商事ビル

三菱商事ビルは1946年1月に接収され、GHQ外交部、米国大使館として使用された。1952年4月の解除後も、米国大使館に賃貸し1953年12月まで使用。

東9号館 東9号館
6富士ビル

仲7号館別館

1925年に接収された仲7号館別館(竹葉亭)は、1946年2月に接収をされた。将校宿舎・クラブとして使用された東京會舘の従業員宿舎として、1952年1月まで使用された。

管理事務所と所員の集合写真
7丸の内仲通りビル

仲15号館

1946年3月に接収されエデュケーション・センターならびに米軍調達部として使用。1956年1月に解除されるが、地下の一部は1958年まで解除されなかった。

仲15号館
8明治安田生命ビル

仲11号館5、6号

1946年3月に接収され、1952年1月まで軍事裁判法廷、連合軍憲兵隊、国連朝鮮復興機関として使用される。

雨の仲通り
9DNタワー21

第一生命館、農林中央金庫

マッカーサー総司令官は東京に進駐した当日に、都内を車で視察し、複数あった候補のなかから第一生命館と農林中央金庫を選んでGHQ総司令部を置いたとされる。第一生命館では、現在でもマッカーサー元帥の執務室を記念室として保存している。第一生命館は1952年7月、農林中央金庫は1956年2月にそれぞれ接収解除になっている。

第一生命館の基礎工事
10明治生命館

明治生命館

明治生命館は、1945年9月から1956年7月までアメリカ極東空軍司令部として使用される。この間、1952年まで2階の第一会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会の会場として使用された。マッカーサー総司令官もこの会場で開催された会議に何回も出席している。

完成間近の明治生命館
11郵船ビル

郵船ビルディング

1945年9月に接収し、極東空軍尉官宿舎として1956年1月まで使用。接収解除後はふたたび日本郵船が本社屋とした。

郵船ビル完成予想図
12東京銀行協会ビル

東京銀行協会

1945年9月に接収され、「American Red Cross Club(バンカーズ兵員クラブ)」という名称の米軍将校クラブとして使用された。米軍接収中に、火災によって上階を焼失。1956年7月に接収が解除され、翌1957年に復旧工事が行われたものの、当時の面影はやや失われたという。

東京銀行集会所
13JPタワー

東京中央郵便局

1945年9月から1949年12月まで、一部が接収され検閲機関が入る。

通勤サラリーマンと市バス

取材協力:千代田区立日比谷図書館